こんにちは、メァ(@mea_magika_blog)です。
最近、また虐待と思われる事故・事件が多発していますね。
加害者となった母親の行動は、決して許されるものではありません。
この数日で起きた虐待と思われる事件。
同じことを、私も子供の頃に受けていました。
今回は、私が受けた虐待と、親となってからの考え、今の親との関係などをお話しようと思います。
ここで話すのは、私が経験したことを踏まえて考えた『一個人の見解』です。
『被虐待児』になる
始まりは、いつだったか分かりません。
ただ、私の記憶に強く残っている1番古いものは、妹がまだオムツの頃でしたので、3~4歳かと思います。
あの日、よちよち歩きをしていた妹は、トイレの前でオムツを脱いで漏らしてしまいました。
恐らく、私や他の大人のように、トイレで用を足す真似をしたかったのだと思います。
私がトイレに行こうとした時に気付き、とりあえず脱いでいたオムツを履かせたのだと思います。
(ここら辺はあまり覚えていません)
母親を呼んで「妹が漏らした」と伝えたら、酷く叱られました。
母は「私が自分で漏らしたのを妹のせいにしている」と判断したのです。
「オムツなのにこんな風に漏らすわけないだろう!!」と言われました。
そりゃそうですよね。
私も、もし長男が幼いうちに次男が生まれていて、同じことを言われたら、多分疑います。
3~4歳の頃の子供って、小さな嘘をつき始めたりする年頃です。
恐らく普段の私もそうだったのでしょう。
母が疑ってしまうのも仕方ないとは思います。
しかし、私はタイミングが悪かったのです。
(当事者が今思うからこそ「タイミング」だと思えるのですが)
日々の疲れとストレスと、その場の怒りとで、母は私を、家の外の門柱に縛り付けて放置しました。
野良犬も珍しくない田舎だったので、野犬に食べられる妄想までした私。
散々泣き叫んで暴れて、結局近所のおじいさんに助けられました。
その日、それからどうなったのかは覚えていません。
しかし、人間というのは、一度タガを超えてしまうと、収まりがきかなくなるものです。
その事件から、母も父も、私を「嘘をついて人に罪をなすり付ける子供」として認識し、躾はどんどん厳しくなりました。
そしていつしか、躾の範疇を超えて…
私は『被虐待児』となっていきました。
虐待の背景には『家庭環境』がある
当時、私の家庭は大変でした。
父が薬害により倒れ、働けなくなってから日が浅く、母は私と幼い妹を育てながら、金策に追われていました。
処方ミスによる薬害なので医療裁判を起こせば多少の補償はあるかもしれません。
しかし、裁判費用の宛もなく泣き寝入りするしかなかった両親。
お金の不安というのは本当に酷いストレスになります。
それは、経済DVを受けていた私もよく分かります。
父が倒れ、母は朝も夜も働き、父は身体にムチを打って家事と子育てをして…
生活保護も認められず、国保も年金も払えず、家賃も光熱費も滞納。
もしも父が倒れずに、元気で働けていたとしたら、私は虐待されなかったかもしれません。
健康と休養とお金は、『平凡な日常』を送るためには必要不可欠なものです。
『被虐待児』の日常
『うち、親がめっちゃ厳しいから』
それが私の口癖でした。
私は何日も同じ服を着ている子供でした。
大して汚れていないのに洗濯に出すと殴られました。
私は朝ごはんを食べられない子供でした。
夜も何かにつけて怒られ飯抜きにされるので、給食をガツガツ食べまくりました。
小学校の低学年くらいでは、そのせいで『貧乏』と虐められました。
『貧乏』というのは事実でした。
中学生の頃、部活での事故で前歯を2本折りました。
学校の保険があるので、きちんとした治療をして差し歯にしても、あとから治療費は返ってきます。
しかし、その『立て替えて払う』お金がなく、私はヤブ医者のような歯医者に連れて行かれ、折れた歯を接着剤で無理やり着けられました。
その歯は、早くから黒く変色し、歯並びも良かったのに着けた角度が悪く出っ歯になり、辛い青春時代を過ごしました。
(ハリセンボンのはるかのような感じでした)
中学生になって喘息を発症した私は、学校で何度も倒れたり、発作で夜も眠れないことが頻繁にありました。
それでも、親は私を仮病と決めつけて、病院には連れていきませんでした。
当時は今のように、子供の医療費が無料なわけではありませんでした。
お金がないのと、ネグレクト状態とで、私はまともに病院に行った記憶はありません。
母は、働けない父の代わりに朝も夜も働きました。
かれこれ20年以上前の話です。
一旦家庭に入った女が、男と同じだけ稼ぐことはかなり難しい時代でした。
疲労と困窮とプレッシャーとで、酷いストレス状態が続いて、母は常にヒステリー状態でした。
父は、母の代わりに慣れない家事と育児をしていました。
元々器用な人だったので、すぐに要領をつかみ、家事は母のスキルを超えましたが、それでも『働きたいのに働けない』というのは酷いストレスだったと思います。
両親は、そのストレスのはけ口として、私を厳しく厳しく育てました。
(両親は今でも認めていませんが。)
私はいつも、洗濯されていない服やサイズの合わない服を着ていて、不憫に思った同級生の親御さんに友達のお古を貰ったりしていました。
しかし、それも「まだ綺麗だから。お前に着せたらすぐダメになる」と言われて、一部のくたびれた服しか着れませんでした。
文房具も買ってもらえず、落し物箱の無記名の短い鉛筆や消しゴムをこっそり使いました。
それを親に見つかり、殴られて飯抜きにされ、縛り上げられました。
土日には給食が無いので、空腹も限界になり、妹達や近所の友達のために買ってあるお菓子をこっそり食べたりしました。
もちろん見つかって殴られて、外に締め出されました。
締め出された時は、とりあえず空腹を満たすために、裸足でスーパーなどに行って試食コーナーを巡ったり、食べ物を万引きしたりしたこともありました。
捕まって半殺しの目に遭わされて、また飯抜きの日々。
飢えをしのぐ為に親の金に手を付けたこともありました。
全ての最初には『飢え』がありました。
しかし親は、「外に出るからいけないんだ」と、私を閉じ込めるようになりました。
身についたのは『逃げる術』
最初に閉じ込められたのは、台所の床下収納でした。
ここは鍵がないので、夜中にこっそり出ていて見つかり殴られました。
身体が大きくなってからは、階段の上の物置に閉じ込められました。
取手を自転車のチェーンロックで施錠されました。
しかし、チェーンロックの鍵の番号を覚えていたので、扉を少しだけ押し開けて隙間から手を出し、ロックを解除して抜け出しました。
チェーンロックの次は、ビニール紐で手足を縛られました。
しかしビニール紐というのは案外弱く、少しずつ指先で割いて、引きちぎって脱走しました。
すると次は、親はどこかから手錠を買ってきて、それを私に付けました。
これには難儀しました。鉄製なので、手を引き抜こうとしても痛くて抜けないのです。
それでも、空腹が限界になると「このままでは死んでしまう!」と、手の皮を真っ赤にして無理やり引き抜き、逃げ出しました。
逃げ出すのは、いつも決まって祖母の家でした。
子供の足で、1時間ほど歩いて毎回行っていました。
しょっちゅう私が逃げ出してくるものだから、祖母は毎日ご飯を多めに炊いていてくれました。
お腹いっぱいご飯を食べて、祖母と一緒に暖かい布団にぎゅうぎゅうになって眠り、朝になると父が車で迎えに来ていました。
強制的に謝らせられ、無言のまま車に揺られ、自宅に帰ってやっと、一時の平穏が訪れます。
それはパターン化されていました。
恐らく、祖母が父を叱っていたのだと思います。
一度何とかして祖母の家に逃げられれば、その時の監禁は終わります。
それがわかっていたので、どんな手を使ってでも逃げ出しました。
こう書いていくと、監禁ばかりのように見えますが、実際は監禁に至るまでに暴力があります。
包丁を突き付けられたことも、蹴り飛ばされて何メートルも吹き飛んだことも、首を締められて堕ちたことも、湯船に沈められて溺れたことも、2階の窓から投げ落とされたこともありました。
身体だけは頑丈で、骨折などしなかったために、病院にも学校にも、行政にも気付かれませんでした。
(実際は友人たちは異常さに気付いていたようです。しかし、友人との交流も制限されていた私は、何も知りませんでした。)
『被虐待児』の特別な日
毎日何かしらの虐待を受けていた私にも、誕生日やクリスマスはあります。
しかし、それは「私が存在しない」ものでした。
母は、料理は苦手ですが、お菓子作りは好きでした。
誕生日やクリスマスになると、「この日くらい良いよね!」とケーキを作ったりドーナツを揚げたり…。
私の誕生日にも、5歳まではケーキを作ってくれました。
しかし、その5歳の誕生日のケーキは、ショートケーキの苺の代わりに、蒸した栗がのっていました。
私の誕生日の時期には苺が高くて、買えなかったんです。
栗が嫌いな私は、その栗ケーキをみて「こんなの誕生日ケーキじゃない」と泣いてしまいました。
今思えば、母はどんなに辛かったでしょう。
栗だって、ケーキの生クリームだって、当時の我が家には決して安いわけではありません。
(ぶっちゃけ、栗が嫌いな子の誕生日に栗のケーキは酷だとは思いますがw)
それでも、5歳の私には耐えられませんでした。
そして、常にストレスMAX状態の中必死に用意した母も、泣かれたことに耐えられませんでした。
母は激怒し、誕生日のケーキは台無しに。
「もう二度とテメェの誕生日なんて祝ってやらねぇ!!」
そう言われて、それから20歳になるまで、本当に私の誕生日はありませんでした。
私の誕生日だけが、いつもの日常として過ぎていきました。
クリスマスも、私にはほとんど記憶がありません。
第三者としての、傍観者としての記憶しかないんです。
母が作ったケーキやチキンがあったけど、私は端で皆が食べているのを見ているだけでした。
親の機嫌を損ねなけれは、残飯を貰えました。
台所にある二槽式洗濯機の蓋に乗せて、立ったまま1人で食べました。
プレゼントも、私には基本的にありません。
ある年だけ、編み物のセットがあったことがありました。
全く趣味じゃないし、欲しくもなかったけど、数年ぶりのクリスマスプレゼントだったのでひたすら編みました。
留め方が分からなかったので、毛糸がなくなるまで編んで、そのまま枕元に置いていた記憶があります。
あまりにも長くなってしまったので、続きは次の記事に。
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mea.